“Live House” は和製英語。
日本語で言うとこの「ライブ聴きに行った」の「ライブ」という言葉には「音楽の生演奏」という意味が与えられている。
しかし英語における ‘Live’ という単語には、「音楽に関連する」という意味は一切なく「生放送」という言葉における「生」という意味でしかないため “Live House” では「『生の家』って一体何?」ということになってしまう。
日本語において「生」とつく単語は、他にも「生魚」や「生乾き」といったものがあるも、英語の ‘Live’ が日本語の「生」と同じ機能を担ってはいないため「生魚」や「生乾き」は ‘Live’ で言い表すことはできない。
今日の1曲: You Can’t Do That by the Beatles
後半
リスナーから「春に想う日本の価値観」というテーマをトピックとして取り上げて欲しいというお便りがあった。
春は別れと出逢いの季節: 卒業、入学、退職、転勤
しかし見方を変えると、「学校は○歳で○年生」「大学3〜4年でリクルートスーツで一斉就活」「春には一斉に入社式」という様に、外れてはいけない流れが出来上がっている。
人をシステムに合わせようという発想からは、「個々の特徴を生かして特技を伸ばそう」という考えからは遠ざかり「みんな同じことができる様に育てよう」という方向になってしまう。
例えば小学校の読書感想文では、本に興味がある子も、そうでない子も課題図書を読み感想を書くことを求められる。
興味がない子が本を読んでつまらないと感じ、なぜつまらなかったのかを書くことは感想文として成り立つはずだ。
しかし「課題図書を読んだ感想はどういったものであるべきか」ということを匂わせているため「なぜつまらないか」を書いてはいけないという風潮がある。
この様な観点の教育を受けてきて、社会に出て突然「多様性」だと言われても、育てられてこなかった感性は提供しようがないのではないか。
人がシステムに合わせなくてはいけない社会は大変窮屈で生き辛い。