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2022年1月5日

依存

とある複合商業施設に大規模なJRの駅が隣接している。その館内にはJRの改札が設置されており、わざわざ施設を出て中央改札に回らなくとも、便利に電車に乗る事ができると言った物だ。

しかしながらこの改札は交通系ICカード専用であり、改札の施設側は(恐らく)施設の敷地ゆえJRのICカードチャージ機器が設置されていないため、切符乗車客あるいはICカードのチャージが最低乗車料金以下の者は、中央改札まで回らなくてはならない。

改札の手前のガラスの壁には「切符とチャージ金額の少ないICカードはその改札を利用できない」と言う内容が要点を絞って表示されている。更にガラスの壁の手前(施設館内)にはJRが用意したであろう立看板があり、そこには乗客に対する以下の様なメッセージが書かれている:

「大変ご不便をおかけいたしますが、チャージが足らない場合、きっぷをご利用の場合は中央北改札をご利用ください。」

その不便さに利用客の誰かが苦情を申し立てたか、はたまたそれを見越してJR側が苦情対策として先に置いたかは定かではない。

何の表示もされていないのであれば、その不便さに不快を覚え苦情の一つも出るのはわかる。しかし立看板を置かなくとも、そのことについての表示がガラスの壁にされている以上、サービス提供者側としては既に最善を尽くしているため、それを読まずして改札が利用できなかったのは、利用者側に落ち度があると判断するのが、西洋社会での物の考え方である。

「日本の接客の質は高い」と言う自負をよく耳にするが、「料金を払っているサービス利用者に何の責任も負う義務はなく、全ての不便・不都合はサービス提供者が取り除くべきである」と言う消費者的考え方から、何に置いても「面倒なことはお金を出してやって貰えば良い」と言う傾向が生まれ、それによりサービスの規約における細かく難しい点などは、(法律上?)契約時に説明はあるも、利用者がきちんと把握していないケースが多い様に見受けられる。

こう言った傾向が増えることで、利用者は自ら考えて内容を把握することを放棄し、細かい事を代わりにやってくれる者に依存して生きる様になる、と言う可能性があるのではなかろうか?